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【公共・哲学について】知性的徳・倫理的徳・観想(テオーリア)の意味についてわかりやすく説明お願いします。

質問者からの補足コメント

A 回答 (3件)

まず、オテーリアは「永遠不変の真理や事物の本質を眺める理性的な認識活動」とありますので『本質を見つめる事』と考えて宜しいかと思います。

先の2件とは別次元の物です。
次に、先の2件は徳とありますので、徳を定義してみます。
徳とは「人に備わった善や正義にしたがう人格的能力」とあります。
知的や倫理的と分類されていますが、徳と言う大きな枠内に色々な概念が存在するという事で、知的ではない低次元(素朴的)も存在するとなります。よってこの様に分類したら分り易いと思います。
・素朴的徳:生まれた時から存在する善の意識(死を悲しむ気持ち等)
・知的徳 :生後に取得した善の意識(貧困者を憐れむ気持ち等)
・倫理的徳:他者との関りから生じた善の意識(ルールや法を守る気持ち等)
この様な感じで宜しいのではないでしょうか。
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7. ★ 知性的徳


☆ とは 記憶行為にかんする記憶力や 知解にかんする理解力 あるいは意志をめぐる判断力が 基本的なものとして挙げられます。

8. 知解にかんしては 理解力のほかに 想像力・とくに創造性に富むそれが挙げられますし 意志については 判断力にもとづく実行力や統率力などが欠かせません。


9. ★ 倫理的徳
☆ は 特にとしては 判断力にかかわり・しかも人間関係をめぐる思想や行動のよしあし・すなわち価値判断の問題になります。

10. 同時にしかも 行動力が挙げられますし そこに包容力や勇気・決断力といったことがらがふくまれて来ます。



11. ★ 観想(テオーリア)
☆ については けっきょく《ひらめき》の問題です。経験科学を推し進めるにあたって 非経験の場をめぐる非思考の庭から 経験的で思考としてのヒラメキがあたえられるかどうかの問題です。

12. 社会科学や人文科学に限らず――おそらく察するに――自然科学にあっても このヒラメキといった一種の徳が 活躍するものと考えられます。


13. なお これらの問題において 身体たる感性の原野 すなわちその感性という要素要因が忘れられてはならず お見逃しなくとつけ添えます。

14. 感性は ヒラメキにも――思考の緑野とともに――おおいにかかわっていて その鋭さは 人間の《徳》だと思います。
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1.


《徳》とは 人間の持つ行為能力でそのほこるべきチカラを言います。

2.
人間の能力行為には 存在を身と心とに分けるなら 身としての《感性》と心としての《知性》とがあります。

3.
感性は 世界の中にあってその世界とのあいだで身体の感官をとおしておこなう刺激作用です。

それは おもに世界からの刺激の受容です。

ちなみに世界は 自然(環界)と文化から成り立ちます。

文化は 人間のおこなう自然に対する加工です。

文化は 言葉によって自然世界を個々のモノゴトごとに概念として捉え 自然と文化から成る世界についてその概念を用いて 観念的に編集したりします。

感性については問われていませんが 知性のあつかう言葉・概念は 基本として環境自然や身体環境たる人間自然に対応するところが 基礎となっています。(そこから 想像裡におけるだけの観念となった言葉・概念が得られてきます)。



4.
さて 知性ですが これは 人間の心ないし精神にかかわるものごとすべてを言います。

精神が ふと目を覚まして《精神が精神する》ところに現われるものは 《記憶》です。

記憶として持っている言葉についてその概念内容をきちんと知るのは 《知解》という能力行為です。

記憶を呼び覚まそうとし 知解を推し進めることを欲するのは 《意志》なる行為能力です。

精神は これら三つ・すなわち三権分立でたとえるなら 司法に当たる記憶と立法をになうような知解と法を施行する行政にあたる意志とから成る。




5.
《知性的徳》とは 〔けっきょく感性の問題をも無理なくふくむことになる〕知性全般についてのとうといチカラのことです。

《倫理》とは すでに知り合っていたりやがて知り合いになるであろうと思われる広義の仲間のあいだにおけるカカハリやマジハリを言います。特には――知解によって思考して得られるところの・或る種の規範ともなり得る――よき人間関係を言います。

倫理的徳は――徳と言えば チカラとしてすでに意志の問題なのですが―― 特に人間の現実における意志ないし意志行為に現われると見られます。


6.
《観想(テオーリア)》は では どこに――精神の能力行為の何に――見られるのであろう?

どうでしょうね。

《身(感性の原野)や心(思考の緑野)》から成る人間の自然本性のどこに 観想は位置しているか。

おそらく自然本性を超えたところの――したがって《非経験の場》とよぶべき――なにか でしょうか?


しかもこの《非経験の場》と経験存在たる人間のわれとのあいだの――想定されうるのなら――カカハリに 問題はあるように思われます。

これは 単純に言って 神とわれとのカカハリとして 自然本性にプラスアルファとしてそなわったかに思われる信仰の問題です。《非思考の庭》――それは 動態――と呼ばれます。


心身を超えたところの非思考の庭は 心身としての感性の原野や思考の緑野にあたかも降りてくる。このようにして得られた《知性》は 観想(テオーリア)と呼んで おおきくは精神の問題として哲学があつかいます。
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