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大奥というのは、江戸城にだけあったのですか?
または、全国各大名のお城には大なり小なり大奥は存在してたのでしょうか?

A 回答 (10件)

江戸時代において大奥は江戸城の他に存在しませんでした。

これは1618(元和4)年に二代将軍の徳川秀忠が「大奥法度」を定めた際に、将軍家以外で「大奥」と言う名称を使うことを禁止したからです。他の大名家では、正室や側室の住む場所を「奥向き」(大奥と同じ)と呼びます。
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この回答へのお礼

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お礼日時:2024/05/08 14:38

江戸だけです 上様のおなーり~~ 廊下の鈴がリンリンリン


長廊下の両脇に女たちがズラーーっとお出迎え
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中国王朝では、皇后は後宮に住まわせました、そこに勤める官僚の男は


生殖能力を除去された、宦官でした。
日本には宦官を官僚にする考えが無かったので、三代将軍家光の乳母、
春日局が男子禁制の女だけの大奥を作ったのです。
大奥の運営には莫大な経費を要する為、100万国の大名でも維持
出来ないので作れないのです。
大名の北の方は色々な方法で監視していた様です。

中国王朝では皇太子も東宮に住み、皇太子妃は、厳重に監視されて
いました。
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「奥」とは、大きな屋敷に住む家主とその家族にとっての、プライベートゾーンのことです。



江戸城の将軍家だけが「大奥」という正室・側室・子供及び御付きの奥女中たちが住む大きな居住空間を持っていました。

全国の大名は、ただの「奥」です。おそらく大名の場合は、正室とその子供(世継ぎ)は人質として各藩の江戸屋敷に住むことを強制されていたからでしょう。地元の城には側室しかいなかったわけです。正室がいないのに「大奥」とは言えないと思われます。
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奥は表に対する言葉としての奥です。



旦那は仕事などの表向きの事をして、連れ合いは家臣団の面倒や給金の工面、その他、家の事を全て取り仕切る奥向きの事をします。
なので、奥様と呼びます。

但し、奥様は旗本以上に対して使い、それ未満の武士では御新造さん、町民ではオカミサンです。

大奥は将軍家の場合に限定され、目的は血筋を絶やさない事で、大名の場合は単に奥です。
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将軍のお世継ぎを作るために作られた場所ですから江戸城だけです

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江戸城だけです。


各地の大名にはそんな予算(莫大らしいです)はありませんし
参勤交代で江戸詰めになる期間が多くて無駄な場所です。
そもそもの目的が世継ぎを作るためですから
そんな場所がなくても目的は達せられます。
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小さな大名なら、よくて、お城内の妾宅の形。

悪いと、勝海舟のような妻妾同居。
織田信長が、後継者の必要に迫られ、側室3人同時に決めた話がありまずが、人数的にはその程度、どうも実家のまま、信長が通ってた形みたい。秀吉の場合、最初は本拠地の城には置いてなかったみたい。天下取ってからの寧々には淀城を造ってそこに居続け。男子禁制でなかったので、秀頼の本当の父親はだれかの疑惑が残ってます。
血統に拘って男子禁制の大奥にしたのは、徳川家光のごろ。御三家の尾張、紀伊あたりは真似て似たような形にしたかもしれません。
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藩主や将軍などが政務を取り仕切るエリアを表


藩主や将軍などのプライベート空間を奥とします

将軍の場合は、将軍様の日常生活は中奥とし御台所をはじめとした女性たちの空間を大奥と呼び分けていたようですね

なので、表と奥という使い方は将軍家(江戸城)に限らないけど
大奥という使い方は将軍家独自だと思いますよ
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大奥はあくまでも江戸城のみです。


それ以外のお城では単なる側室です。
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