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たまたま関ヶ原の戦い 西軍 総大将は毛利と聞いて初めて知りましたが、

合戦以後、

毛利は徳川にどんな扱いされたんですかね?
ついでに石田家もどうなったんですかね?
豊臣のように潰されてはいないんですよね?

A 回答 (2件)

まず大阪城で秀頼のそばにいた毛利輝元に対し、城を退去して国許に変えるよう説得。


輝元が城から出たのを確認して、論考表彰。東軍に付いた毛利分家の吉川広家に周防、長門の二国を与える。本家毛利の所領は全部没収と告げると、吉川が交渉の上、自分の分を本家に譲ることに。
吉川にたいしては、毛利支藩として周防の一部(今の岩国市)を毛利が吉川に与える。幕府としては、吉川をやや優遇。1藩に城1つの原則にもかかわらず、山口県には萩城に加え、吉川の本拠地に岩国城という特別待遇。
毛利家の本拠地萩は、所領のはずれ、河口の三角州のような軟弱な地盤。この場所を幕府が指定したという説あり。
毛利家は朝臣として、朝廷視線では、徳川と同格の家柄。これはそのまま。幕末、天皇が毛利家に徳川を討てと勅令を出せば、官軍になれるという風潮から、倒幕へと傾いていった。
中国地方全部から今の山口県に領土が減ったにも拘らず、家臣のほとんどをそのままにした。給料カット、夏みかんの内職と、家来達の家計はたいへん。藩としては、土地を埋め立てて、新田開発。大阪の陣の時、西軍にこっそり兵糧の差し入れ、幕末の薩長同盟後、薩摩へ長州米をという話などから、食料自給率はかなり優秀。
 しかし、幕府にたいしては藩の財政は苦しいと見せかけて、幕府からの圧力を回避していた。
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合戦後、情報を精査した結果、家康は毛利家の領地全て(中国地方を中心に10ヶ国ほど)を没収することにしました。


しかし、親戚筋で、ある意味家康の関ヶ原での勝利の立役者の一人であある、 
吉川広家
が、戦いの恩給として得た
周防と長門
の2カ国を毛利輝元に譲るというかたちで、毛利家は存続を許されることになりました。
とは言え毛利家は、家康に逆らった者達のリーダー格ですから、徳川方からは特に警戒されていたことでしょうね
隙あれば、難クセをつけてとり潰してやるろうと思われていたはずで
毛利家は、お家取り潰しの口実を与えないためにも、疑われるような言動は慎み、徳川への忠義を尽くしていくことになります

石田三成の子供たちは、関ヶ原の戦いの後を生き延び、江戸時代には、その子孫が、ある大名家に仕えるなどしたそうです
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